『〜実山、終焉の地〜』
 浄善寺が、茶書「南方録」の著者とされる立花実山の終焉の地に深い関わりがあることが近年になってわかりました。
 市報「いいづか」歴史さんぽみち(平成10年7月号)によれば、立花実山は名を五郎左衛門重根といい、号は実山、のち出家して宗有といいました。父は一万五百石の重臣で家督は長男重敬が相続し、次男実山は三代目の藩主光之に45年間仕え、光之が隠居した後も隠居頭取りとして三千石を拝領し、詩歌文章に優れた文人で、貝原益軒の門人でもありました。
 彼の名を今日の茶道会で不滅にしたのは、千利休の茶道の秘書とされる「南方録」を書写補足して秘伝九か条にまとめた「南方録」七巻を著したことでしょう。
 しかし宝永四年(1707)に光之が死去後出家し、博多住吉の松月庵に閉居しましたが翌年六月に光之の後継ぎをめぐる綱之騒動に巻き込まれ、親戚筋にあたる野村裕春に領地、嘉麻郡鯰田村に幽閉され、同年十一月に四代藩主綱政の命により悲運にも殺害されました。
 幽閉中は筆や硯も許されず、楊枝で字を書き、墨が少なくなったときは指の血をしぼり、草の汁で書いたといわれています。

立花実山の戒名
 彼の幽閉の場所や殺害された地点はいまだ不明ですが、浄土宗浄善寺の近くであったといわれており、同寺には彼の死の記録が残されています。また遺骸は曹洞宗晴雲寺境内の観音堂に埋められていたとも言い伝えられています。
 四十年後、六代藩主継高により、博多駅前の東林寺に改葬され、彼の墓が残っています。
 こうした立花実山の死については、地元ではほとんど知られていませんが、彼の終焉の地を探して鯰田の地ははるばる遠くから訪ねる人もあるようです。
 また「嘉穂郡誌」には、「立花実山謫居地」は「鯰田畠中、浄善寺(今は田となれり)脇にあり、村倉となれり」とあります。
 浄善寺脇の「畠中」とは地元では「ハタケンナカ」とよび浄善寺北西の隣接地で鯰田本町四地区の小鶴氏邸付近と推察されます。
 さらに「浄善寺過去帳」を見ると
「十日」の項に
 而生斉実山宗有静主、宝永五子
  十一月(1708)立花五良左右門重根
 右死十三歳後 各跡相立中庄立花太郎云々
「十九日」の項にも
 大真院殿応誉実山宗有居士、享保十八丑十二月(1733)立花五良左右門
 為御茶湯料左之年多二従、殿様より銀子百五拾目被下 御郡代井上新右衛門殿御役所江現住存秀并二大庄屋半四郎、村庄屋丘次郎三人被呼出候 右銀子二而堀田壹作壹反五畝買取、毎暮余米銀二而三拾目寺江納候筈 田地預り主 大庄屋半四郎 証人兵次郎右之通 古過去帳ニ有之候共拙僧并ニ旦那ニモ存不申只々本之儘ニ記ス者也
 と二つの戒名が見える。十日の「立花太市は実山の孫で増一のことである。十九日の郡代は嘉麻郡郡代であろう。「大庄屋」は恐らく綱分触大庄屋。村庄屋はもちろん鯰田村庄屋である。「堀田」は地名。「壹作」は裏作出来ぬ新開田で下々田。半四郎が預り主、兵次郎が証人となって経営し、毎年暮れに小作料として銀「三拾目」が浄善寺に納められることになった筈だという。「十九日」の「大真院殿応誉実山宗有居士」の戒名は浄土宗系統の戒名。(以下は山中耕作氏、西南学院大学教授の「立花実山の死」−二つの表白文ついて)より引用しました。
 なほ「過去帳」については嘉飯山郷土研究会の香月靖晴氏に調べて頂きました。
浄善寺・総代 藤島茂嗣